古都・平泉の訪問記録です。

 関山 中尊寺高舘 義経堂 無量光院跡医王山 毛越寺

 関山 中尊寺(かんざん ちゅうそんじ)
訪問日:2007-8-17(金) 場所:岩手県 平泉町 天候:雨

山門入り口


金色堂(金色堂は覆堂の中にあります)


金色堂屋根部分
 創建時期:嘉祥三(850)年 もしくは 長治二(1105)年
 建立者:円仁(慈覚大師) もしくは 藤原 清衡

 寺伝によると、草創は嘉祥
850)年、円仁(慈覚大師)が関山弘台寿院を開創したのが始りとされ、その後、貞観元(859)年、清和天皇から「中尊寺」の額を賜ったと言う事です。しかし、円仁開山のことは、確かな史料や発掘調査の結果からは裏付けられず、実質的には十二世紀初頭に奥州藤原氏初代・藤原清衡が堀河天皇の勅命を受けて伽藍を整備したのが、中尊寺の創建と見られています。
 長治
1105)年、清衡が五十歳の時、平泉にて中尊寺の中興(事実上の創建か)に着手しました。金色堂の建立は天治元(1124)年、諸堂の整備が終わって、盛大な落慶供養が行われたのは着手から21年後の大治元(1126)年で、清衡は71歳(死の2年前)の時でありました。この落慶供養の際の願文(がんもん)の写本が残っており、それによれば、中尊寺は前九年・後三年の役の戦没者を含め、あまたの霊を浄土へ導き、奥州全体を仏国土にしたいとの願いのもの、多宝塔や二階大堂など「寺塔四十余宇、禅坊三百余宇」を建立しました。
 文治
1189)年、奥州藤原氏は源頼朝によって滅亡させられるが、中尊寺は頼朝の庇護を得て存続しました。『吾妻鏡』に、当時の中尊寺から頼朝に提出された「寺塔已下注文」(じとういかちゅうもん)という文書が引用されており、それによれば、当時の中尊寺には金色堂のほかに、釈迦如来・多宝如来を安置した「多宝寺」、釈迦如来百体を安置した「釈迦堂」、両界曼荼羅の諸仏の木像を安置した「両界堂」、高さ三丈の阿弥陀仏と丈六の九体阿弥陀仏を安置した「二階大堂」(大長寿院)などがあったと言います。中尊寺には、建武1337)年に大きな火災があり、金色堂を残してほぼ全焼してしまいました。
 近世の中尊寺は衰退し、『奥の細道』の旅をしていた松尾芭蕉が中尊寺の荒廃ぶりを見て嘆いたのはよく知られています。江戸時代、伊達氏の庇護を受けて堂宇の補修・建立が行われ、寛文
1665)年には東叡山寛永寺の末寺に組み込まれました。
 明治四十二年(1909)年に本堂が再建。昭和二十五(1950)年に金色堂須弥壇に八百年もの間、安置されていた藤原四代の遺体が調査されました。この時、四代・泰衡公の首桶から発見されたハスの種が平成十(1998)年に開花し、「中尊寺ハス」として、境内に植えられています。
 
昭和三十三(1958)年には天台宗東北大本山の称号を許され天台宗総本山延暦寺より不滅の法灯を分火護持される。昭和三十七(1962)年より金色堂の解体修理が行われ、6年後の昭和四十三1968)年に創建当時の輝きを取り戻し、現在に至っています。

 金色堂へ至る道には幾つもの堂があり、中尊寺の大きさに驚きました。そしてついに金色堂へ到達。生憎の雨でしたが、黄金に輝く金色堂を見ていると、悠久の昔、藤原清衡が争いの無い極楽浄土を作ろうとした、その思いを感じる事ができました。
 中尊寺ハスも綺麗に咲いており、これを見ていると、逃れる事によって平泉を戦場にする事無く、後世まで平泉の文化遺産を伝える事に成功した四代・泰衡公の思いも伝わってくるような気がしました。


阿弥陀堂
   
鐘撞堂

本堂

弁慶堂

地蔵堂

大日堂

不動堂

観音堂

峯薬師堂

薬師堂

金色堂旧覆堂

能舞台
 
中尊寺ハス

 高館 義経堂(たかたち ぎけいどう)
訪問日:2007-8-17(金) 場所:岩手県 平泉町 天候:雨
 建立時期:天和三(1683)年
 建立者:伊達 綱村(仙台藩・四代藩主)

 高館は、中尊寺の東方にある北上川に臨む丘陵で、判官館(ほうがんだて)とも呼ばれており、その眺望は平泉第一と言われています。
 兄頼朝に追われ、藤原秀衡公を頼って平泉に落ち延びた源義経の居城があった所で、文治五(1189)年、閏四月三十日に秀衡公の子・泰衡に襲われ、妻子とともに自害したと伝えられている所です。
 高館の頂上には、仙台藩・第四代藩主・伊達綱村公が天和三(1683)年に建立した義経堂があり、堂内には義経の像が祀られています。像は勇ましい甲冑姿で、若き英雄・義経公の在りし日の姿が偲ばれます。
 高館から眺めると、眼下に北上川が流れ、遠く束稲山の連山が望まれます。又、西から衣川が北上川に合流しいます。衣川の流域はかって前九年.後三年の役の戦いが繰り広げられたところであり、弁慶立ち往生の故事でも知られています。

 判官館とは義経が判官という官職にあった事に由来しています。ここからの眺めは最高で、秀衡公が義経を厚く保護し、大切に思っていたかが良く分かります。しかし、志半ばで自害を強いられた無念さも同時に伝わってくるような気がします。義経の北行伝説と、泰衡が平泉から戦わずに逃れた事を考えると、二人は義経を殺害した事にして、何処かで再起を図ろうとしていたのかもしれません。自分としては、北行伝説が本当だったら、なんて淡い期待を抱いています。


義経堂から望む北上川


 無量光院跡(むりょうこういんあと)
訪問日:2007-8-17(金) 場所:岩手県 平泉町 天候:雨


復元図

 建立時期:十二世紀後半
 建立者:藤原 秀衡

 無量光院は宇治平等院の鳳凰堂を模して、十二世紀後半に奥州藤原三代・藤原秀衡が、その居館である伽羅の御所に隣接して建立しました。
 『吾妻鏡』によると新御堂(にいみどう)と号しました。新御堂とは毛越寺に対する新院の意味で、毛越寺の付属寺院でした。
 堂内四壁の扉には観経の大意を描き、秀衡みずから描いた狩猟の様子が図絵してありました。本尊は丈六の阿弥陀仏で三重の宝塔があり、院内の荘厳や建物の向き、地形までもことごとく宇治平等院を模したと言われます。中堂前に磚(せん)瓦を敷き詰めていることと池に中島があることが、平等院に見られないことです。発掘調査によると、四囲は東西約240メートル、南北約270メートル、面積約6.5ヘクタールで、毛越寺より一回り大きかったようです。平泉の猫間が淵を宇治川に、束稲山を宇治の朝日山に見立てて借景としており、庭園は毛越寺や観自在王院と同巧で、典型的な浄土庭園でした。金鶏山を背景としたこの庭園は、華麗な東向きの寺院と相まってまことに美しかったであろうと想像されます。

 今は礎石や中島の跡が残るのみとなっていますが、跡地の近くには復元図もあり、当時の華麗な伽藍の数々が瞼の裏に蘇ってくるようでした。
 現在は復元整備が行われているようですが、跡地はJR東北本線や国道等に分断されているので、完全な復元はかなり難しいのではと思います。しかし、もし、往時の姿で復元されたとしたら、どんなに素晴らしい事かと、楽しみにもしています。


 医王山 毛越寺(いおうさん もうつうじ)
訪問日:2007-8-17(金) 場所:岩手県 平泉町 天候:雨

常行堂付近から、大泉ヶ池を挟んで本堂を望む
 建立時期:嘉祥三(850)年
 建立者:慈覚大師(じかくだいし)

 寺伝によると、毛越寺の創建は次の通りです。
 嘉祥三(850)年、慈覚大師(じかくだいし)が東北巡遊の折、この地にさしかかると一面霧に覆われ、一歩も前に進めなくなりました。ふと足元を見ると地面に白鹿の毛が点々と落ちているので、大師は不思議に思いその毛を辿ってゆくと、前方に白鹿がうずくまっていました。大師が近づくと白鹿の姿は霧のなかへ消え、やがてどこからともなく一人の白髪の老人が現れ、「この地は霊地であるから堂宇を建立するなら仏法が広まるであろう」と告げました。大師は、この老人こそ薬師如来の化身と感じ、一宇の堂を建立し嘉祥寺(かしょうじ)と名付けました。これが毛越寺の開山にまつわる話です。
 また、別の見会では、実際は仏教を通じて奥羽全体を運営しようとした、奥州藤原氏の初代・清衡公が奥羽の諸寺院の総本山として毛越寺を建立したのが始りとも言われています。清衡公は
一万近くあった村落すべてに伽藍を建てさせ、その総本山として毛越寺を建立しました。これは、聖武天皇の国分寺と同じ発想によるものと思われます。史書『吾妻鏡』には「堂塔四十余り、禅房五百余りあり、基衡これを建立する」とありますが、創建寺は二代目の相続争いにより焼失し、まったく同じものを基衡公が再建したとも言われています。
 毛越寺は、藤原氏二代・基衡公から三代・秀衡公の時代に多くの伽藍が造営されました。往時には堂塔四十僧坊五百を数え、中尊寺を凌ぐ程の規模と華麗さであったと言われています。奥州藤原氏滅亡後、度重なる災禍に遭い全ての建物が焼失したが、現在大泉が池を中心とする浄土庭園と平安時代の伽藍遺構がほぼ完全な状態で保存されており、国の特別史跡・特別名勝の二重の指定を受けています。平成元年、平安様式の新本堂が建立されました。

 平安様式の庭園が綺麗な毛越寺。遣水や常行堂周辺のモミジは色付き始めており、紅葉の季節はさぞ綺麗だと思われます。道を一本挟んで、隣には観自在王院(基衡夫人創建)跡もあり、平泉の中心だった往時の姿が偲ばれます。また、境内には毛越寺一山に伝わる平安期の仏像、書籍、工芸品、発掘遺品、調査資料、延年の舞用具などを陳列している宝物館もあります。


本堂

開山堂

遣水

常行堂

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