古都・京都の訪問記録です。世界遺産登録場所。
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 大雲山 龍安寺北山 鹿苑寺(金閣)正法山 妙心寺二条城(登城録へ)平安神宮東山 慈照寺(銀閣)
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 華頂山 知恩教院大谷寺音羽山 清水寺

 大雲山 龍安寺(だいうんざん りょうあんじ)
訪問日:2007-12-1(土) 場所:京都府 京都市 天候:晴

方丈庭園(龍安寺の石庭)
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 創建時期:宝徳二(1450)年
 創建者:細川 勝元(ほそかわ かつもと)

 龍安寺(りょうあんじ)は、京都市右京区にある臨済宗妙心寺派の寺院で石庭で知られています。本尊は釈迦如来で「古都京都の文化財」の一部として
世界遺産にも登録されています。
 室町幕府の管領,守護大名で、応仁の乱の東軍総帥でもあった細川勝元が宝徳
1450)年に創建した禅寺です。衣笠山山麓に位置する龍安寺の所在地は、藤原北家の流れを汲む徳大寺実能以来、徳大寺家の山荘であったところを、細川勝元が譲り受けたものです。初代住職として妙心寺・五世住持の義天玄承(玄詔)を迎えました。創建当初の寺地は現在より遥かに広く、京福電鉄の線路のあたりまでが境内であったと言われています。
 龍安寺は、細川勝元自身が一方の当事者であった応仁の乱(
応仁元(1467)年〜文明九(1477)年)で焼失しますが、勝元の子・政元と、四世住持・特芳禅傑によって長享1488)年に再興されました。寺では特芳を中興開山と称しています。その後、豊臣秀吉と江戸幕府が寺領を寄付して保護しています。
 近世の地誌類によれば、最盛期の龍安寺には塔頭(たっちゅう、子院)が
二十一か寺、軒を連ねていたと言われています(現存するものは3か寺)。当時、龍安寺の池はオシドリの名所として知られており、今日有名な石庭よりもむしろ、池を中心とした池泉回遊式庭園のほうが著名であったようです。寛政1797)年の火災で仏殿など主要伽藍を焼失した為、塔頭の1つである西源院の方丈を移築して龍安寺の方丈(本堂)としたそうです。
 方丈庭園(史跡・特別名勝)−いわゆる「龍安寺の石庭」-は、幅
25メートル、奥行10メートル程の敷地に白砂を敷き詰め、帚目を付け、15個の石を5か所に点在させただけのシンプルな庭です。近世の地誌類には、室町幕府に仕えた相阿弥の作庭と伝えますが、作者、作庭年代、表現意図ともに諸説あって定かではありません。室町時代末期の作で特芳禅傑らの優れた禅僧によって作られたものとも伝えられています。
 
15個の石は、庭をどちらから眺めても、必ず1個は他の石に隠れて見えないように設計されていると言われています。東洋では十五夜(満月)にあたる15という数字を「完全」を表すものとしてとらえる思想があり、15に一つ足りない14は「不完全さ」を表すとされている。日本には、日光東照宮の陽明門にみられるように、「物事は完成した時点から崩壊が始まる」という思想があり、建造物をわざと不完全なままにしておく事があります。

 2007年12月に行った旅行で訪れました。境内は紅葉が見頃でとても綺麗でした。丁度何かの撮影が行われており、石庭見学時間が少し遅くなってしまいましたが、石庭を見ているとゆったりと落ち着いた気分になれました。言い伝え通り、どこから見ても15個全てを見渡す事はできず、感動してしまいました(^^;

 この日は他に鹿苑寺(金閣寺)妙心寺二条城平安神宮慈照寺(銀閣寺)知恩教院大谷寺(知恩院)清水寺を回りました。平安神宮と知恩院は通りすがりに門を見ただけですが(^^;
 交通手段は自転車です。公共交通機関と違って時間や渋滞を気にする事無く、歩きよりも早い、そして路地裏にも入れて色々な京都を見る事ができました。レンタサイクルお勧めです!

     

 北山 鹿苑寺(ほくざん ろくおんじ、通称:金閣寺)
訪問日:2007-12-1(土) 場所:京都府 京都市 天候:晴

 創建時期:応永四(1397)年
 創建者:足利 義満(あしかが よしみつ)

 鹿苑寺(ろくおんじ)は、京都市北区にある臨済宗相国寺派の寺院です。寺名は足利義満の法名にちなんでいます。
 この地には、鎌倉時代の元仁元(
1224)年に藤原公経(西園寺公経)が西園寺を建立し、あわせて山荘を営んでおり、公経の子孫である西園寺家が代々所有していました。西園寺氏は代々朝廷と鎌倉幕府との連絡役である関東申次を務めていましたが、幕府滅亡直後に当主・西園寺公宗が後醍醐天皇を西園寺に招待して暗殺しようと企てたという容疑がかけられて処刑されてしまい、西園寺家の膨大な所領と資産は没収されてしまいます。この為、西園寺も修理が及ばず、次第に荒廃してしまったそうです。
 
応永四(1397)年、室町幕府第三代将軍・足利義満が河内国の領地と交換に西園寺を譲り受け、改築と新築によって一新しました。この義満の北山山荘は当時「北山殿」、または「北山第」と呼ばれており、邸宅とは言え、その規模は御所に匹敵し、政治中枢の全てが集約されていました。義満はここで一切の政務を行ったと言われています。その後、義満は将軍職を子の義持に譲りますが、実権は手放さず、北山殿にあって政務を行いました。義満の死後、遺言によって北山殿は舎利殿を残して解体され、禅寺とされ鹿苑寺と名付けられました。夢窓疎石を勧請開山(名目上の開山)としています。応仁の乱では、西軍の陣となり建築物の多くが焼失してしまいました。
 通称「金閣寺」の由来となった金閣は、漆地に金箔を押した三層の建物で正式には舎利殿と称します。初層,二層,三層のそれぞれに異なる様式を採用した特異な建築となっています。初層は寝殿造風で「法水院」(ほっすいいん)と称し、中央に宝冠釈迦如来像、向かって左に法体の足利義満像を安置しています。二層は住宅風(武家造)の「潮音洞」で、岩屋観音像と四天王像を安置しています。三層は禅宗様の仏殿風で仏舎利を安置し「究竟頂」(くっきょうちょう)と称します。屋根はこけら葺きで上には鳳凰が飾られています。 鹿苑寺金閣は第二次大戦前から旧国宝に指定されていましたが、昭和二十五(1950)年、学僧・林承賢(当時21歳)の放火により炎上(金閣寺放火事件)してしまい、林は寺の裏山で自殺を図りました。建物は全焼し、国宝の足利義満像も焼失してしまいます。しかし、屋上の鳳凰は火災以前に取り外されていたため焼失を免れ、現存しています。この事件は三島由紀夫の小説『金閣寺』、水上勉の小説『五番町夕霧楼』・『金閣炎上』の題材にもなっているそうです。
 現存する金閣は昭和三十(1955)年に旧建物の資料を基に再建されたものです。平成六(1994)年に古都・京都の文化財として世界遺産に登録されました。中心となる建築物である舎利殿を「金閣」、寺院全体を「金閣寺」と通称しています。銀閣(慈照寺)、飛雲閣(西本願寺)と併せて『京の三閣』と呼ばれています。

 2007年12月に行った旅行で一番最初に訪れました。黒門から総門までの参道が、紅葉がとても綺麗で、コンビニで買ったサンドイッチを方張りながらゆったりと見てきました。まだ拝観時間前だったので、人も居なく、優雅なひと時を過ごせました(^^;金閣は中学校の修学旅行以来、十数年ぶりに訪れましたが、黄金に輝く舎利殿が池にうつってとても綺麗でした。
 この日は、他に
龍安寺妙心寺二条城平安神宮慈照寺(銀閣寺)知恩教院大谷寺(知恩院)清水寺を回りました。平安神宮と知恩院は通りすがりに門を見ただけですが(^^;


 正法山 妙心寺(しょうぼうざん みょうしんじ)
訪問日:2007-12-1(土) 場所:京都府 京都市 天候:晴

南総門
 創建時期:暦応五(1342)年
 創建者:花園法皇(はなぞのほうおう)

 妙心寺は、京都市右京区花園にある臨済宗妙心寺派大本山の寺院で、本尊は釈迦如来、開山(初代住職)は関山慧玄(かんざんえげん、無相大師)であります。日本にある臨済宗寺院約
六千か寺のうち、約三千五百か寺を妙心寺派で占めています。近世に再建された三門、仏殿、法堂(はっとう)等の中心伽藍の周囲には多くの塔頭寺院(たっちゅうじいん、子院)が建ち並び、一大寺院群を形成しています。
 京都の禅寺は、五山十刹(ござんじっさつ)に代表される、室町幕府の庇護と統制下にあった一派と、それとは一線を画す在野の寺院とがありました。前者を「禅林」または「叢林」(そうりん)、後者を「林下」(りんか)と言ったそうです。妙心寺は、大徳寺と共に、修行を重んじる厳しい禅風を特色とする「林下」の代表的寺院でした。
 今の妙心寺の地には、花園上皇の離宮・萩原殿がありました。花園上皇は、建武
1335)年に落飾して法皇となり、萩原殿を禅寺に改める事を発願します。法皇の禅の上での師は大徳寺開山の宗峰妙超(しゅうほうみょうちょう、大燈国師)でありました。宗峰は建武1337)年に没しますが、臨終間近の宗峰に花園法皇が「師の亡き後、自分は誰に法を問えばよいか」と尋ねた所、宗峰は高弟の関山慧玄(かんざんえげん)を推挙しました。
その頃、美濃の山奥で修行に明け暮れていた関山は、都に戻る事を渋りますが、師僧・宗峰の遺命と花園法皇の院宣があっては辞去する訳にはいかず、暦応1342)年、妙心寺の開山となりました。尚、「正法山 妙心寺」の山号寺号は宗峰が命名したもので、釈尊が嗣法の弟子・摩訶迦葉(まかかしょう)に向かって述べた「正法眼蔵涅槃妙心」(「最高の悟り」という意味)という句から取ったものだそうです。
 妙心寺
世住持の拙堂宗朴(せつどうそうぼく)は、足利氏に反旗を翻した大内義弘と関係が深かった為、室町幕府第三代将軍・足利義満の怒りを買います。応永1399)年、義満は妙心寺の寺領を没収し、拙堂宗朴は大内義弘に連座して青蓮院に幽閉の身となりました。
 妙心寺は応仁の乱で伽藍を焼失しますが、中興の祖である雪江宗深(せっこうそうしん)の尽力により復興します。細川家や豊臣家などの有力者の援護を得て、近世には大いに栄えたと言われています。
 また、明智風呂と呼ばれる浴室があり、これは天正十五(1587)年に密宗和尚が明智光秀の菩提を弔う為に創建したもので、後、明暦二(1656)年に改建されました。光秀の命日とされている毎年六月十四日に人々に施浴した事が始まりとなり、江戸時代 まで施浴は続き、いつしか「明智風呂」と呼ばれるようになったと言います。実際に僧侶達の禊には昭和二(1927)年まで使用されていたそうです。

大方丈(だいほうじょう)

法堂(はっとう)

三門

浴室(明智風呂)
 訪れた当日は、大法院(妙心寺塔頭寺院の1つ。寛永二(1625)年、大転法輸禅師が創建しました。 真田信之の菩提寺でもあります)で特別拝観が行われており、お茶を飲みながら、見事な庭の紅葉を眺める事ができました。また、法堂と浴室内も見学でき、有名な狩野探幽の筆による雲龍図と、千三百年程前に作られた日本最古の梵鐘(黄鐘調の鐘、国宝)を見る事ができました。

 この日は、他に龍安寺鹿苑寺(金閣寺)二条城平安神宮慈照寺(銀閣寺)知恩教院大谷寺(知恩院)清水寺を回りました。平安神宮と知恩院は通りすがりに門を見ただけですが(^^;


大法院の庭園

お茶とお菓子

大通院の庭
(土佐藩主・山内一豊,千代夫妻廟)

霊雲院の庭

 平安神宮(へいあんじんぐう)
訪問日:2007-12-1(土) 場所:京都府 京都市 天候:晴

応天門(神門)
 創建時期:明治二十八(1895)年
 創建者:京都実業協会(きょうとじつぎょうきょうかい)

 平安神宮は、京都市左京区にある神社で、
明治二十八(1895)年に平安遷都千百年を記念して平安京遷都時の天皇であった第五十代・桓武天皇を祀る神社として創建されました。当時、京都の衰退ぶりは目を覆うものがあり、幕末の戦乱で市街地は荒廃し、明治維新によって事実上首都が東京へ遷った事は人々の心に大きな打撃を与えていました。その状況下で京都を救ったのは、京都復興への市民の情熱と全国の人々の京都に対する思い入れでした。数々の復興事業を展開し、教育、文化、産業、生活等全ての面において新しい京都が模索され、同時に古き良き京都の維持継承に力が注がれました。これらの熱意と一連の町おこし事業が見事に結実して、平安神宮が創建されました。千年以上も栄え続けた雅やかな京都を後世に伝える為に、京都復興にかけた多くの人々の遺志を後世に伝える為に、四海平安の祈りを込めて創建されたのです。
 その後、皇紀
2600年にあたる昭和十五(1940)年に、市民の懇意によって平安京有終の天皇、第百二十一代・孝明天皇が祭神に加えられ「日本文化の故郷京都」のおや神様として広く崇敬を集める事となりました。
 平安時代の応天門を模した、大きく赤く光る朱色の正面の門が特徴です。また、参道の鳥居は
24.2mの高さがあります。社殿は平安京の大内裏の正庁である朝堂院を模しています。
 敷地面積は約一万坪の日本庭園である「神苑」を含め、約二万坪程あります。神苑は明治から昭和にかけての名造園家である代目・小川治兵衛(植治)が20年以上かけて造った名園で、国の名勝に指定されています。神苑にはカワセミや大鷹などの人里には珍しい鳥類や、甲羅に草を生やすミノガメ、本州にはここでしか生存が確認されていない南石亀などが生息しています。

 二条城から慈照寺(銀閣寺)に向かう途中、平安神宮近くの蕎麦屋でお昼を食べて、応天門を見学してきました。この日は、他に龍安寺鹿苑寺(金閣寺)妙心寺二条城慈照寺(銀閣寺)知恩教院大谷寺(知恩院)清水寺を回りました。平安神宮と知恩院は通りすがりに門を見ただけですが(^^;


 東山 慈照寺(とうざん じしょうじ、通称:銀閣寺)
訪問日:2007-12-1(土) 場所:京都府 京都市 天候:晴

手前から、銀沙灘、向月台、観音殿(銀閣)
 創建時期:文明五(1473)年
 創建者:足利 義政(あしかが よしまさ)

 慈照寺(ろくおんじ)は、京都市左京区にある、東山文化を代表する臨済宗相国寺派の寺院で、一般には銀閣寺(ぎんかくじ)の名で知られていまする。
 足利義政が造営した楼閣建築である観音殿を「銀閣」と通称し、観音殿を含めた寺院全体を「銀閣寺」と通称しています。この通称名は近世の名所案内記などですでに使用されていました。金閣と通称される鹿苑寺舎利殿には金箔が貼り付けられているのに対し、銀閣と通称される慈照寺観音殿には銀箔は使用されていません。
 室町幕府
第八代将軍・足利義政は、文明五(1473)年、嗣子・足利義尚に将軍職を譲り、 文明十四(1482)年から、東山の月待山麓に東山山荘(東山殿)の造営を始めました。この地は、応仁の乱で焼亡した浄土寺のあった所であり、近代以降も左京区浄土寺の地名が残っています。
 当時は応仁の乱が終わった直後で、京都の経済は疲弊していましたが、義政は庶民に段銭(臨時の税)や夫役(ぶやく、労役)を課して東山殿の造営を進め、書画や茶の湯に親しむ風流な生活を送っていました。造営工事は義政の死の直前まで八年に渡って続けられますが、義政自身は山荘の完成を待たず、工事開始の翌年である
文明十五(1483)年にはここに移り住んでいたそうです。
 東山殿には会所、常御所(つねのごしょ)などの大規模な建物が建ち、足利義満の北山殿(後の鹿苑寺)程ではありませんが、ある程度政治的機能も持っていたと考えられています。ただし、現存する当時の建物は銀閣と東求堂(とうぐどう)のみとなっています。
 延徳二(
1490)年二月、同年に死去した義政の菩提を弔う為、東山殿を寺に改め、相国寺の末寺として創始されたのが慈照寺です。
 戦国時代末期には関白・近衛前久の別荘にもなりますが、これは慈照寺の歴代住持に近衛家出身者が多かった事によります。前久の死後は再び相国寺の末寺として再興されました。
 昭和二十七(
1952)年に庭園が特別史跡及び特別名勝に指定され、平成六(1994)年には「古都京都の文化財」として世界遺産に登録されました。

 訪れた時は四時近く、雲も出てきてしまっていましたが、初めて銀閣を見る事ができとても感動しました。この日は、他に龍安寺鹿苑寺(金閣寺)妙心寺二条城平安神宮知恩教院大谷寺(知恩院)清水寺を回りました。平安神宮と知恩院は通りすがりに門を見ただけですが(^^;


 華頂山 知恩教院大谷寺(かちょうざん ちおんきょういん おおたにでら)
訪問日:2007-12-1(土) 場所:京都府 京都市 天候:晴

三門
 創建時期:承安五(1175)年
 創建者:法然上人(ほうねんじょうにん)

 知恩院(ちおんいん)は、京都府京都市東山区にある浄土宗総本山の寺院です。本尊は法然上人像(本堂)及び阿弥陀如来(阿弥陀堂)です。
 知恩院は、浄土宗の宗祖・法然房源空(法然)が東山吉水(よしみず)、現在の勢至堂付近に営んだ草庵をその起源としています。法然は平安時代末期の長承
1133)年、美作国(岡山県)に生まれ、十三歳で比叡山に上り、十五歳で僧・源光のもとで出家します。十八歳で比叡山でも奥深い山中にある西塔黒谷の叡空に師事し、源光と叡空の名前の1字ずつを取って法然坊源空と改名しました。法然は四十三歳の時、唐時代の高僧・善導の著作『観経疏』を読んで「専修念仏」の思想に開眼し、浄土宗の開宗を決意して比叡山を下りたと言います。「専修念仏」とは、いかなる者も、一心に弥陀(阿弥陀如来)の名を唱え続ければ極楽往生できるとする思想です。この思想は旧仏教側から激しく糾弾され、攻撃の的となりました。法然は建永1207)年には讃岐国(香川県)に流罪となり、年後の建暦元(1211)年には許されて都に戻りますが、翌年の一月に八十歳で没しました。
 法然の住房は、現在の勢至堂付近にあり、当時の地名を取って「吉水御坊」「大谷禅坊」等と称されていました。ここに法然の廟が造られ、弟子が守っていましたが、嘉禄
1227)年、延暦寺の衆徒によって破壊されてしまいます。
 文暦元(1234)年、法然の弟子にあたる勢観坊源智が再興し、四条天皇から「華頂山知恩教院大谷寺」の寺号を下賜されました。その後も永享1431)年の火災や応仁の乱などで焼失しますが、その都度再興されています。現存の三門、本堂(御影堂)をはじめとする壮大な伽藍が建設されるのは江戸時代に入ってからの事になります。浄土宗徒であった徳川家康は慶長1608)年から知恩院の寺地を拡大し、諸堂の造営を行っています。造営は第二代将軍・徳川秀忠に引き継がれ、現存の三門は元和1621)年に建設されました。寛永1633)年の火災で、三門、経蔵、勢至堂を残しほぼ全焼してしまいますが、第三代将軍・徳川家光のもとでただちに再建が進められ、寛永十八1641)年までにほぼ完成しています。徳川家が知恩院の造営に力を入れたのは、徳川家が浄土宗徒である事や知恩院二十五世超誉・存牛(ちょうよぞんぎゅう)が松平氏第五代・長親の弟である事、京都における徳川家の拠点とする事、徳川家の威勢を誇示し、朝廷を牽制する事といった、政治的な背景もあったと言われています。

 慈照寺(銀閣寺)から清水寺に行く途中の午後五時頃、三門の前を通りがかりました。知恩院も夜の特別拝観を行っており、時間があれば寄りたかったのですが、レンタサイクルの返却時間が決まっており、清水寺の夜景をメインに見たかったので、今回拝観は見送りました。

 この日は、他に龍安寺鹿苑寺(金閣寺)妙心寺二条城平安神宮慈照寺(銀閣寺)清水寺を回りました。平安神宮と知恩院は通りすがりに門を見ただけですが(^^;


 音羽山 清水寺(おとわさん きよみずでら)
訪問日:2007-12-1(土) 場所:京都府 京都市 天候:晴
 創建時期:宝亀九(778)年
 創建者:延鎮上人(えんちんじょうにん)

 清水寺は、京都市東山区清水にある寺院で本尊は千手観音、開基(創立者)は延鎮上人です。宗派はもと法相宗に属したが、現在は独立して北法相宗大本山を名乗っています。
 石山寺(滋賀県大津市)、長谷寺(奈良県桜井市)等と並び、有数の観音霊場として古くから知られ、西国三十三箇所観音霊場の第
16番札所であり、「古都京都の文化財」の一部として世界遺産にも登録されています。
 広隆寺、鞍馬寺と共に、平安京遷都以前からの歴史を持つ、京都では数少ない寺院の
1つです。清水寺の縁起は様々な伝本があり、『今昔物語集』『扶桑略記』等にも清水寺草創伝承が載せられています。これらによれば、草創縁起は概ね次の通りとなります。
 宝亀
778)年、大和国子島寺(奈良県高市郡高取町に現存)の僧・延鎮上人が、夢のお告げで霊泉を訪ねて辿り着いたのが、今、清水寺の建つ音羽山でした。そこにはこの山に篭って数百年も修行を続けているという行叡居士(ぎょうえいこじ)という修行者が居て、行叡は「自分はこれから東国へ旅立つので、後を頼む」と言い残し、去って行ったそうです。延鎮は、行叡居士が残していった霊木に観音像を刻み、草庵に安置しました。これが清水寺の始まりと言われています。
その年後の宝亀十一780)年、鹿を捕えようとして音羽山に入り込んだ坂上田村麻呂は、修行中の延鎮に出会います。田村麻呂は妻・高子の病気平癒の為、薬になる鹿の生き血を求めてこの山に来たのですが、延鎮より殺生の罪を説かれ、観音に帰依して観音像を祀る為に自邸を本堂として寄進したと言います。後に征夷大将軍となった田村麻呂は、観音の加護の賜物か、無事東国の蝦夷を平定し、都に帰る事が出来ました。延暦十七798)年、延鎮と田村麻呂は協力して本堂を大規模に改築し、観音像の脇侍として地蔵菩薩と毘沙門天の像を造り、共に祀ったと言われています創建の年については宝亀十一780)年でなく延暦十七798)年とする場合もあり、延鎮が最初に分け入ったのは木津川の上流の山で、平安京遷都に際して今の音羽山に移ったとする話もあります。これらの話には何らかの史実を基にしていると思われ、その根幹には日本古来の山岳信仰、水源信仰があると言われています。延暦二十四805)年に坂上田村麻呂が寺地を賜り、弘仁元(810)年、嵯峨天皇の勅許を得て公認の寺院となった事は史実とされ、この頃に本格的な寺観が整ったと考えられています。
 清水寺は、京都では珍しい法相宗(南都六宗の
1つ)の寺院で、長らく興福寺の末寺でありました。本堂を始めとする伽藍は、度々火災にあっており、現在の本堂は寛永1633)年、江戸幕府・第三代将軍・徳川家光の寄進によって再建されたものです。他の諸堂も多くはこの年に再建されています。
 東大路通から清水寺までの約1kmの坂道は清水坂と称され、道の両側には観光客向けの土産物店等が軒を連ねています。境内は標高242mの清水山(音羽山)中腹に石垣を築いて整地され、多くの建物が軒を接するように建ち並んでいます。入口の仁王門を過ぎ、西門、三重塔、鐘楼、経堂、田村堂(開山堂)、朝倉堂等を経て本堂に至ります。本堂の先、境内の東側には北から釈迦堂、阿弥陀堂、奥の院が崖に面して建っています。本堂東側の石段を下りた先には寺名の由来でもある名水が本の筧(かけい)から流れ落ちており、「音羽の滝」と呼ばれています。音羽の滝からさらに南へ進むと、「錦雲渓」と呼ばれる谷を越えた先に塔頭寺院の泰産寺があり、「子安塔」と呼ばれる小さな三重塔があります。この他、本堂の北に鎮守社の地主神社(じしゅじんじゃ)、さらに北には清水寺本坊の成就院が建っています。
 思い切って物事を決断する事を「清水の舞台から飛び降りるつもりで」と言いますが、ある調査によれば、実際に飛び降りた人が
1694年から1864年の間に234件(未遂を含み、記録のあるものだけ)に上り、生存率は85.4%と意外に高かったと言います。観音の住むという補陀洛浄土へ旅立とうとして飛び降りた者が多かったと考えられています。

 2007年12月1日に京都旅行に行った時に、最後に寄りました。目当ては秋の特別拝観。紅葉のこの時期、ライトアップされた清水寺はとても幻想的で見に来て良かったと、心から感動しました。
 この日は、他に
龍安寺鹿苑寺(金閣寺)妙心寺二条城平安神宮慈照寺(銀閣寺)知恩教院大谷寺(知恩院)を回りました。平安神宮と知恩院は通りすがりに門を見ただけですが(^^;


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