古都・奈良と斑鳩の訪問記録です。世界遺産登録場所。
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 聖徳宗総本山 法隆寺法相宗大本山 薬師寺

 聖徳宗総本山 法隆寺(しょうとくしゅうそうほんざん ほうりゅうじ)
訪問日:2007-12-2(日) 場所:奈良県 斑鳩町 天候:晴

国宝・五重塔
 創建時期:推古天皇十五(607)
 創建者:推古天皇(すいこてんのう)、聖徳太子(しょうとくたいし)

 法隆寺(ほうりゅうじ) は、奈良県生駒郡斑鳩町にある聖徳宗の総本山で、別名を斑鳩寺(いかるがでら)と言います。聖徳太子こと厩戸王ゆかりの寺院で、創建は同じく聖徳太子ゆかりの寺院である大阪の四天王寺より約二十年後の推古天皇十五(607)年とされています。金堂、五重塔等がある西院と、夢殿等のある東院に分かれています。西院伽藍は現存する世界最古の木造建築物群で、法隆寺の建築物群は法起寺と共に、平成五(1993)年に「法隆寺地域の仏教建造物」としてユネスコの
世界遺産に登録されました。
 現存する法隆寺西院伽藍が
世紀末〜世紀初の建立である事は定説となっており、この伽藍が建つ以前に焼失した前身寺院(いわゆる若草伽藍)が存在した事も発掘調査で確認されています。また、聖徳太子の斑鳩宮跡とされる法隆寺東院の地下からも前身建物の跡が検出されています。以上の事から、「聖徳太子」の人物像には後世の潤色が多く含まれているとしても、そのモデルとなった厩戸王によって世紀の早い時期、斑鳩の地に本格的寺院が営まれた事は史実と認めて良い、と考えられています。
 通説によれば、推古天皇
601)年、聖徳太子は斑鳩の地に斑鳩宮を建て、この近くに建てられたのが法隆寺であるとされています。金堂の「東の間」に安置される銅造薬師如来坐像(国宝)の光背銘には「用明天皇が自らの病気平癒のため伽藍建立を発願したが、用明天皇がほどなく亡くなった為、遺志を継いだ推古天皇と聖徳太子が改めて推古天皇十五607)年、像と寺を完成した」という趣旨の記述があります。しかし、正史である『日本書紀』には法隆寺の創建については何も書かれていません。
 しかし、若干不明点は残るものの、法隆寺創建が
世紀前半の聖徳太子在世時に遡る事は、発掘調査の結果等からも明らかで、皇極天皇643)年に蘇我入鹿(そがのいるか)が山背大兄王(やましろのおおえのみこ)を襲った際に斑鳩宮は焼失しますが、法隆寺はこの時は無事だったと考えられています。
 日本書紀巻
二十七に「夏四月癸卯朔壬申 夜半之後 災法隆寺 一屋無餘(天智天皇九(670)年に法隆寺は一屋余すところ無く焼失した)」という記事があります。この記事の真偽を巡って、現存する法隆寺西院伽藍は聖徳太子創建時のものであるとする説と、670年に全焼した後、再建したものであるとする説とが鋭く対立し、いわゆる「再建・非再建論争」が起きました。尚、発掘調査や建築用材の伐採年代の科学的調査等の裏付けから、現存する法隆寺西院伽藍は670年の焼失後の再建であるという事は定説となっています。
 ただし、皇極天皇643)年の上宮王家(聖徳太子の家)滅亡後、誰が西院伽藍を再建したのか等、再建の事情については謎も多く残っています。焼失前の旧伽藍(若草伽藍)は、現存の西院伽藍の位置ではなく、かなり南東寄りに位置していました。また、現存の西院伽藍がほぼ南北方向の中軸線に沿って建てられているのに対し、旧伽藍の中軸線はかなり北西方向に傾斜しています。更に、現・西院伽藍の建つ土地は、尾根を削り、両側の谷を埋めて整地したものである事が分かっており、何故、大規模な土木工事を行ってまで伽藍の位置や方位を変更したのかは明らかになっていません。
 再建時期についても明確な記録はなく、現存の西院伽藍の建築を見ると、細部の様式等から、金堂が最も年代が上がり、
世紀末、持統天皇の頃の建立と考えられています。五重塔がそれに続き、中門、回廊はやや遅れての建築と見られています。『法隆寺伽藍縁起并流記資財帳』によれば、中門の仁王像や五重塔初層安置の塑造彫刻群は和銅711)年の製作とあり、この頃には西院伽藍全体が完成していたと考えられています。尚、平安時代に書かれた『七大寺年表』には和銅年間に法隆寺が建てられた、とあります。
 一方、八角堂の夢殿を中心とする東院伽藍は、天平
738)年頃、行信僧都が斑鳩宮の旧地に太子を偲んで建立した物です。延長925)年には西院伽藍のうち大講堂、鐘楼が焼失し、永享1435)年には南大門が焼失する等、何度かの火災に遭ってはいますが、全山を焼失するような大火災には遭っておらず、建築、仏像をはじめ、各時代の多くの文化財を今日に伝えています。近世に入って、慶長年間(十七世紀初頭)には豊臣秀頼によって、元禄〜宝永年間(十七世紀末〜十八世紀初頭)には江戸幕府第五代将軍・徳川綱吉の生母・桂昌院によって伽藍の修造が行われています。

西院伽藍遠景

五重塔と金堂

金堂

大講堂

聖霊院

上御堂
 近代に入ると、廃仏毀釈の影響で寺の維持が困難となり、明治十一(1878)年には管長千早定朝の決断で、聖徳太子画像(唐本御影)をはじめとする三百件余の宝物を当時の皇室に献納し、金一万円を下賜されました。これらの宝物は「法隆寺献納宝物」と呼ばれ、その大部分は東京国立博物館の法隆寺宝物館に保管されている。
 
昭和九(1934)年から「昭和の大修理」が開始され、金堂、五重塔をはじめとする諸堂宇の修理が行われました。「昭和の大修理」は第二次世界大戦を挟んで半世紀あまり続き、昭和六十(1985)年に至ってようやく完成記念法要が行われました。この間、昭和二十四(1949)年には修理解体中の金堂において火災が発生し、金堂初層内部の柱と壁画を焼損してしまいます。この事がきっかけとなって、文化財保護法が制定された事はよく知られる。昭和二十五(1950)年に法相宗から独立し、聖徳宗を開き、その総本山となりました。
 聖徳宗(しょうとくしゅう)とは、聖徳太子を宗祖とし、所依の経典は、聖徳太子が撰したとされる「三経義疏」をもちいています。小本山に法起寺や法輪寺があり、門跡寺院の中宮寺など末寺は
二十九ヵ寺を数えます。

 2007年12月2日に奈良旅行に行った時に寄りました。前日、京都巡りで疲れていたので、奈良は法隆寺と薬師寺しか巡りませんでしたが、京都の寺院と違って、奈良の寺院は建物のスケールが大きく、圧倒されてしまいました。中門の門番である仁王像は日本最古のものだそうです。千三百年前の建物を時じかに見る事ができ、大変な感動を覚えました。時期的に修学旅行生が大変多く、沢山の方が訪れていました。


東室

食堂(日本最古だそうです)

大宝蔵院

東大門

夢殿入り口の門

夢殿

 法相宗大本山 薬師寺(ほっそうしゅうだいほんざん やくしじ)
訪問日:2007-12-2(日) 場所:奈良県 奈良市 天候:晴

金堂
 創建時期:天武天皇九(680)年
 創建者:天武天皇(てんむてんのう)

 薬師寺(やくしじ)は、奈良県奈良市西ノ京町に所在する寺院で、興福寺と共に法相宗の大本山です。南都七大寺の一つに数えられています。本尊は薬師如来である。
平成十(1998)年に「古都奈良の文化財」の一部として世界遺産に登録されました。
 『日本書紀』によれば、薬師寺は天武天皇
680)年、天武天皇が鵜野讃良皇后(うののさららこうごう・後の持統天皇)の病気平癒を祈願し、飛鳥の地に創建したものです。東塔の屋上にある相輪支柱に刻まれた「東塔さつ銘」にも同趣旨の記述があります。しかし、天武天皇は寺の完成を見ずに朱鳥元(686)年に没し、伽藍整備は持統天皇、文武天皇の代に引き継がれました。持統天皇688)年、薬師寺にて無遮大会(むしゃだいえ)という行事が行われた事が『日本書紀』に記されており、この頃までにはある程度、伽藍が整っていたものと考えられています。『続日本紀』によれば、文武天皇698)年には寺の造営がほぼ完成し、僧を住まわせている事が記されています。
 その後、和銅
710)年の平城京への遷都に際して、薬師寺は飛鳥から平城京の六条大路に面した現在地に移転しました。移転の時期は長和1015)年成立の『薬師寺縁起』によれば、養老二718)年の事であったと伝えています。

西塔
『扶桑略記』には天平二(730)年の条に、「始薬師寺東塔立」とあり、東塔が完成したのがその年の事で、その頃まで造営が続いていたと考えられています。
 尚、平城京への移転後も、飛鳥の薬師寺(本薬師寺)は暫く存続していました。史料や発掘調査の結果からは、平安時代中期の十世紀頃までは存続していたようですが、後に廃寺となりました。本薬師寺跡には金堂,東塔の礎石,西塔の心礎が残り、堂塔の平面規模、金堂と塔との距離等が平城薬師寺とほぼ等しい事が分かっています。この、飛鳥の薬師寺跡は大和三山の畝傍山と香久山の中間にあたる橿原市城殿町に残り、「本薬師寺(もとやくしじ)跡」として特別史跡に指定されています。
 平城京の薬師寺は天禄四(973)年の火災と享禄元(1528)年の筒井順興の兵火で多くの建物を失ってしまいました。現在、奈良時代の建物は東塔を残すのみとなっています。
 二十世紀半ばまでの薬師寺には、江戸時代末期再建の金堂、講堂が侘しく建ち、創建当時の華麗な伽藍を偲ばせる物は焼け残った東塔だけでした。1960年代以降、管主・高田好胤が中心となって写経勧進による白鳳伽藍復興事業が進められ、昭和五十一(1976)年に金堂が再建されたのをはじめ、西塔、中門、回廊、大講堂等が次々と再建されました。

東塔
 千三百年前と現代が同時に見られるという内容のJR東海のCMがありますが、朱色が鮮やかな昭和の西塔と、モノクロの奈良時代の東塔と見ると、千三百年の時の流れを感じずには居られませんでした。講堂ではお坊さんが説法を行っており、法隆寺程ではありませんでしたが、修学旅行生や観光客が沢山訪れていました。電車の時間の関係で玄奘塔まで見に回れなかったのが残念でした。


西塔 - 南門 - 東塔


大講堂

東院堂

興楽門

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