古碑の訪問記録です。

 多賀城碑多胡碑

 多胡碑
訪問日:2007-10-2(火) 場所:群馬県 吉井町 天候:曇


 群馬県多野郡吉井町にある古碑で、国の特別史跡に指定されています。山ノ上碑、金井沢碑とともに上野三碑と称されます。また、栃木県の「那須国造碑」、宮城県の「多賀城碑」と並ぶ日本三大古碑の一つとされています。建碑は、その内容から世紀後半頃。

 碑文は、和銅四(711)年三月九日に多胡郡が設置されたことを記念した内容となっていますが、その解釈については、未だに意見が分かれています。特に「給羊」の字は古くから注目され、その「羊」の字は方角説、人名説など長い間論争されてきました。現在では人名説が有力とされています。また、人名説の中でも「羊」氏を渡来人であるする見解が多く、多胡も多くの胡人を意味するとされています。付近の遺跡からは「羊」の文字の入った文字瓦が発見されており、この説を有力なものにしています。

 江戸時代に国学者・高橋道斎によって、その価値を全国に紹介され、その後多くの文人、墨客が多胡碑を訪れています。その価値は清代の中国の書家にも認められました。筆の運びはおおらかで力強く、字体は丸みを帯びた楷書体です。六朝の影響を受けているとも、中国北魏の書風に通ずるとも言われています。

 地元では、昔から「羊太夫」の墓とされ、「羊さま」と呼んで尊崇、信仰の対象とされてきました。比較的損傷しやすい石碑が、非常に良い状態で保存されてきたのはこのためだと言われています。今も堂宇の中に保存されています。

昭和二十九(1954)年、国指定特別史跡に指定されました。町営の記念館が併設されており、多胡碑の開扉願いを事前に申請すれば、堂宇に入って多胡碑を見ることができますが、手に触れることは禁止されています。

碑身、笠石、台石からなり、材質は安山岩、碑身は高さ125cm、幅60pの角柱で680文字の漢字が薬研彫りで刻まれています。笠石は高さ25cm、軒幅88cmの方形造りです。台石には「國」の字が刻まれていると言われていますが、コンクリートにより補修されているため、現在確認できません。材質は近隣で産出される牛伏砂岩で、地元では天引石、多胡石と呼ばれています。

 吉井町に出張に行った帰りに寄りました(^^;近くに古墳もありました。


多胡村115号古墳


 多賀城碑
訪問日:2007-8-18(土) 場所:宮城県 多賀城市 天候:曇




 宮城県多賀城市にある奈良時代の古碑で、国の重要文化財に指定されています。栃木県にある「那須国造碑」、群馬県にある「多胡碑」と並ぶ日本三大古碑の一つとされています。
 平城京(奈良市と大和郡山市近辺)、常陸国(ひたちのくに・茨城県の大部分)、下野国(しもつけのくに・栃木県)、靺鞨国(まつかつのくに・中国東北部)、蝦夷国(えみしのくに・宮城県以北の地域)から多賀城までの行程を記す前段部分と、多賀城が大野東人によって神亀元(
724)年に設置され、藤原恵美朝狩によって修築されたと記す後段部分に大きく分かれます。天平宝字762)年に朝狩自身によって修築記念に建立された物と伝えられています。

 碑身は高さ約1.86m、幅約1m、厚さ約50cmの砂岩。その額部には「西」の字があり、その下の長方形のなかに11140字の碑文が刻まれています。碑に記された建立年月日は、天平宝字762年121日。

 現在は多賀城跡内の覆堂のなかに立っています。江戸時代初期の万治〜寛文年間(16581672年)に発見されました。壷の碑(つぼのいしぶみ)とも呼ばれ、歌枕としても著名です。俳人・松尾芭蕉が元禄1689)年に訪れたことが「奥の細道」で紹介されてます。

銘文(実際の碑文は縦書きです)

      去京一千五百里

   多賀城

      去蝦夷国界一百廿里

      去常陸国界四百十二里

      去下野国界二百七十四里

      去靺鞨国界三千里

西 此城神亀元年歳次甲子按察使兼鎮守府将

  軍従四位上勲四等大野朝臣東人之所置

  也天平宝字六年歳次壬寅参議東海東山

  節度使従四位上仁部省卿兼按察使鎮守

  府将軍藤原恵美朝臣朝狩修造也

         天平宝字六年十二月一日

 多賀城碑が「偽作」という嫌疑は古くからかけられていますが、真作説が現在では有力になっています。
偽作説の根拠としては
 @書体は古風を模しているとはいえ、生気が無い事。
 A陸奥鎮守府が置かれたのは神亀年間ではなく、養老年間以前である事。
 Bまた、碑を建てたとされる朝狩が、碑が建てられた天平宝字
六年十二月
   一日に参議に任ぜられているのはおかしい事。
 C碑には、位階は従四位上とあるが、「続日本紀」によれば、参議の位階は
   従四位下である事。
 D朝狩が東山道節度使に任ぜられた事は、「続日本紀」に見当たらない事。
 E碑には靺鞨国とあるが、靺鞨国はすでに国号をあらため渤海と号し、当時
   から
二代前の聖武天皇の時代から日本との交通は頻繁であるのに靺鞨国
   とあるのはおかしい事。
 F常陸国界を隔てる里程も正史と符合しない点がある事。
  (常陸国から陸奥国に行くには山道と海道とがあり、山道は
四百十二里で
   あり、海道は
二百九十二里。「続日本後紀」によれば和銅年間から弘仁年
   間までは官道は海道であり、以後、山道を官道としたとされており、碑の
   天平宝字
年は海道の里数を挙げなければならない。)
等があるそうです。

 多賀城(宮城県多賀城市)に行った時に寄りました。多賀城と同じく、ボランティアの解説員の方がいらっしゃり、色々と説明をしてくれました。


Back  
inserted by FC2 system